なぜ福島で働くのか
「福島から、全国へ」と掲げている。
稲咲堂のサイトの下の方に、そう書いてある。自分で書いた言葉だ。でも、なぜ福島なのかを、まだちゃんと話していなかった。
東日本大震災の日、いわき市で
2011年3月11日、私はいわき市にいた。高校二年生だった。
自宅にいたとき、揺れが来た。最初は、いつもの地震だと思った。福島は地震が多い。小さな揺れには慣れていた。でも、止まらなかった。揺れが大きくなって、長くなって、立っていられなくなった。
この世の終わりだと思った。大げさではなく、本当にそう思った。
家の中のものが倒れて、外では何かが壊れる音がして、自分にできることは何もなかった。ただしゃがんで、揺れが止まるのを待つしかなかった。自然の前では、人間は本当に無力なのだと、あのとき初めて体で知った。
同時に、揺れが止まったあと、自分がここにいることが信じられなかった。生きている。それだけのことが、こんなにありがたいのかと思った。
東京で考えていたこと
大学は東京に出た。
東京での生活は楽しかった。でも、頭のどこかにずっと引っかかっているものがあった。
あのとき、自分は避難しかできなかった。
高校二年生だったのだから、当たり前だと言えば当たり前だ。十七歳に何ができたかと聞かれれば、たぶん何もできなかった。でも、「当たり前」で片づけてしまうと、そのあとの自分の行動に理由がなくなる気がした。
あのとき何もできなかった自分に、どこか憤りがあった。怒りというほど強い感情ではない。もっと静かで、ずっと消えないもの。東京で授業を受けながら、友達と遊びながら、ふとした瞬間に戻ってくる感覚だった。
福島に戻ろう。復興に関わる仕事がしたい。
いつの間にか、そう思うようになっていた。
福島に戻って気づいたこと
福島に戻って、最初に就いた仕事は、復興とはあまり関係がなかった。
「復興に携わりたい」と思って戻ってきたはずなのに、いざ働き始めてみると、自分の思いがひどく漠然としていることに気づいた。復興って、何だろう。何をすれば復興に携わったことになるのだろう。
答えが出ないまま、転職した。もう一度、転職した。「これだ」と思える場所を探していたのか、ただ落ち着けなかっただけなのか、今となっては自分でもよくわからない。
ただ、足は止めなかった。
大熊町との出会い
四年前、ある求人を見つけた。大熊町の公共施設の運営に関わる仕事だった。
大熊町。原発事故で全町避難になった町だ。当時はまだ、帰還困難区域が大部分を占めていた。正直に言えば、自分に何ができるのかわからなかった。
でも、気づいたら応募していた。
考えて、調べて、納得してから行動する、という順番ではなかった。画面の前で求人情報を読んでいるうちに、手が動いていた。理屈ではなかったのだと思う。東京にいたころからずっと体の中にあった「何かしたい」という感覚が、ようやく行き先を見つけたような気がした。
大熊町が変わっていく
大熊町に関わり始めて、四年が経った。
この四年で、町は目まぐるしく変わった。更地だった場所に、建物がどんどんできていく。新しい施設ができて、新しい店ができて、少しずつ人が増えていく。子どもたちの姿も増えた。
それを間近で見ていると、胸が熱くなることがある。ああ、町が動いている。人が暮らしている。ここは確かに、生きている場所なのだと思う。
ただ、同時に思うこともある。
元々この町に住んでいた人たちから見れば、この変化は単純に嬉しいだけではないだろう。自分が知っていた町の風景が変わっていく。馴染みのある場所がなくなって、知らない建物が建つ。新しい人たちが来て、新しい暮らしが始まる。それは希望でもあるけれど、寂しさでもある。
その両方を、忘れないでいたいと思う。
福島で働き続ける理由
「なぜ福島にいるのか」と聞かれたら、今の自分はこう答えると思う。
ここでしか見られないものがあるから。
町が変わっていく過程を、肌で感じられること。更地が建物になり、静かだった場所に声が聞こえるようになること。それを目の前で見られることが、自分にとっては何より大きい。
高校二年生のとき、何もできなかった。その感覚は今でも消えていない。でも、あのときの自分に「大丈夫だ」と言えるくらいには、今の自分はここにいる理由を持てている気がする。
大熊町にはこれからも関わり続ける。稲咲堂として独立した今も、それは変わらない。
「福島から、全国へ」。その言葉の最初の二文字は、自分にとって出発点であると同時に、帰る場所でもある。